嗚呼、この世に神様と云うものが居るのなら。
緩やかな坂道を上りきると、その家が在る。
文壇に名の知れた小説家、出水京香の邸宅である。
東京に住む学生、雪村中路の下宿はその家の先に位置している。
従って彼は毎日京香邸の目の前を突っ切って高校へと向かうのである。
最近のナカジは、京香邸の前を通る時には必ず足元の下駄の鼻緒を見ながら歩くようになった。
なるべく前は見ない。
それでも、気を許してふと顔を上げると、家の前を掃いている、京香の娘であると目が合ったりするのだ。
そうするとナカジにはどうすることもできない。
ただ、胸の奥に渦々巻いているえも言われぬ不思議な感情を押し込めて、紅くなった頬を元に戻そうと足掻くだけだ。
「お早う御座います」
そんなナカジの努力を一瞬にして打ち砕くの声がする。
愛想のよいは顔を知っているだけのナカジにでさえ挨拶をした。
それにナカジはまた俯いてしまう。
もたもたと鈍足に思考が巡る。
「御免候う!」
そして、震える声でそう言って、下駄の音を鳴らせて走り去るのだった。
進みも戻りもしない、平行線の二人に転機が訪れたのは、まだ木枯らしの吹く頃だった。
何時ものようにナカジは京香邸の前を過ぎて下宿へ帰ろうとしていた。
そこへ、教科書を束ねている革ベルトが、不意に解けてばらりと荷物が道脇に散乱した。
「あぁ・・」
慌てて拾い集めた所へ、眼に留まる白いものがある。
拾い上げてみるとそれは四枚の原稿用紙である。文字が書き付けてある。
目を凝らせばそれは幽霊話で、流れるような字と滑るような文体で書かれている。
「巧い話を書く人があるものだなぁ」
その話が面白かったので、何も考えずにナカジは一緒に革ベルトで留めてしまった。
ところが次の日、その原稿用紙に関わって異変が起きた。
本郷台へと向かって歩いていくナカジは、京香邸がいやに騒がしいことに気付いた。
あちこちでばたばたと何かを探すようだった。
娘のも、道端から見える洋間で何かを探している。
ナカジはまた赤面した。
それでも、必死のを見ると、放っておいて高校へ行ける筈がなかった。
呆けてそれを眺めている怪しいナカジを、京香の門弟である幸二朗が見つけた。
「きみきみ、そこで何をしているんだ」
「え、ぁ、あの」
「そこの高校の制服じゃぁないか。うちに何か用かぃ」
うさんくさそうな目で幸二朗が問う。
それもそうであろう、知らない学生がじろじろと家の中を覗いているのだ。
さんを見ておりました、と言えるわけもなく、ナカジはただうろたえた。
「あの、何か、あったのかと…」
「野次馬とは厭だなァ。京香先生の原稿が無くなったんだよ」
「先生の、原稿・・?」
「今度本にする予定だった原稿でね、幽霊話の。何枚だったか」
ナカジははっとした。
幽霊話。原稿。
昨日、下宿の近くで拾った原稿も、幽霊話であった…。
「幸二朗さん、見つかりましたか」
心配そうな声がした。
ナカジはぼっと熱くなった。
襷をかけた小紋の着物から覗く白い白い腕が目に焼きついた。
「こちらの方は・・」
深く澄んだ目がナカジを見上げる。
良い墨を思い出すそんな色の目に、自分が映っているのをナカジは見た。
「小生は、あの「心配性の野次馬ですよ、お嬢さん。」
幸二朗はナカジに嫌味な笑いを浮かべて言った。
「幸二朗さん、そんな言い方をしては失礼です」
優しくがたしなめる。
「大騒ぎをして申し訳ありません。」
丁寧に頭を下げるから、ナカジもつられた。
昨日拾った原稿を2人に、と言うよりほとんどに、あらためてみようかと思った。
「あの、もし」
「はい?」
家の中へ戻ろうとしたを呼び戻す。
舌が縺れた。
「小生、昨日そのような原稿を拾い申し上げたのですが」
の顔にぱっと希望が灯った。
「あの、それは、どちらに・・!」
「今、こちらに」
教科書を束ねた革ベルトを外す。
日本文学の本の下に挟んであった。
学校の友人に見せてみようと持ってきたのだった。
震える手でに渡した。柔々とした奇麗な手だった。
「・・これは、父の字・・!」
が安堵を浮かべて笑った。
可愛らしいと思った。
「ありがとうございます、父に面目が立ちます」
「それは、良かったです」
「、見つかったのかい?」
芯のある、悠然とした声がした。
灰色の着流しと羽織を着た男が立っている。ナカジには見覚えがない。
「父上・。こちらの方が、拾ってくださったんです」
「ぃ、出水先生…!」
なんとその男こそが、文豪出水京香であったのだ。
に紹介されて、彼の目がナカジに向けられる。
「あなたが、見つけてくださったのですか。」
「は、はい。あの、小生、好奇心で、読ませて頂いてしまって・・」
「構いません。何かお礼をしなければ・・そうだね」
やんわりと笑って京香が言う。ナカジはつと故郷の父を思った。
「はい。家にお上がりになってくださいな。お茶でも差し上げなければ」
「、彼にも都合というものがあるだろう。学校の帰りにでも寄ってくださるかね」
ナカジは深く頭を下げた。
もう一度京香が礼を言って、ナカジは学校へと駆け出した。
二人の歯車がゆっくりと動き出した。
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